本と映画とドラマの感想|サトーのブログ

本、映画、ドラマの感想を書いています。

映画『教皇選挙』感想

 

こんにちは。
停戦合意を破ってガザを攻撃し続けるイスラエルに災いあれと思いつづけているサトーです。
連日の攻撃により、若きジャーナリストHossam ShabatとMahmoud Mansourが殺害されました。
Hossam ShabatはX(旧Twitter)のタイムラインでときどき見ていたので知っていました。ショックが大きいです。

 

そして、アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞した『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』の共同監督が暴行されたあと、行方不明になっているそうです。なんて恐ろしい世界でしょう。

 

続報:解放されたようです!

HAYAKU KUTABARE ISRAEL, KUTABARE ZIONIST

 

 

さいきん観た映画の感想です。
 
 

教皇選挙』ストーリー

全世界に14億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派、カトリック教会。
その最高指導者にしてバチカン市国の元首であるローマ教皇が、死去した。悲しみに暮れる暇もなく、ローレンス枢機卿は新教皇を決める教皇選挙<コンクラーベ>を執り仕切ることに。
 
世界各国から100人を超える強力な候補者たちが集まり、
システィーナ礼拝堂の扉の向こうで極秘の投票が始まった。
票が割れるなか、水面下で蠢く陰謀、差別、スキャンダルの数々に
ローレンスの苦悩は深まっていく。
 
そして新教皇誕生を目前に、厳戒態勢下のバチカンを揺るがす大事件が勃発するのだった……。
 

感想

映画はローレンスが歩いている後ろ姿から始まります。
猊下は徒歩出勤なんですね。
 
X(旧Twitter)で「この映画はコメディだ」ってポストがあったんですよね。それで興味をもって観に行ったんです。
コメディっていうのは、観終わったあとに実感しましたね。
 
カトリックに疎い私には、見てる間はコメディとは思えなかったんです。
どちらかというと皮肉というか、シニカルというか、そういう系のコントみたいに見えたんですよ。笑えないコントというか。
 
誰にだって問題があるとも取れるし、完璧な人間はいないとも取れるし、教皇候補だからといっても所詮は人間である・・・とも取れるんですよね。まあ同じことですね。
 
ローレンスの理想どおりには、世界は動かないものなんですね。
どこかで折り合いをつけないとね、っていう。
見てて本当に思いましたよね。
 

ペテロの献金

私が気になったのは、聖職者たちが着ている衣装とか、宿泊する施設にお金がかかっていそうだなぁ・・・ということです。
衣装は質にもデザインにもこだわっているはずなので、それがあの人数分用意されているのはすごいなと。
宿泊施設も結構きちんとしてたので、こりゃ金かかってるなーと思ったんですよね。
まぁあの施設が本物に近いのかどうかは分かりませんけどね。
 
で、調べたら、ああいうのは寄付金で成立していることが分かりました。
「ペテロの献金」っていうんですって。
いやはや、全世界に信者をもつということが、どれだけ凄いか改めてわかりましたね。資金力がすごいんです。それでも赤字らしいんですけどね。
 
以下、Felo調べです。
 
カトリックの総本山であるバチカン市国は、信者からの寄付によってその財政が支えられています。具体的には、以下のような収入源があります。
寄付金
世界中のカトリック信者からの寄付が重要な収入源となっています。特に「ペテロの献金」と呼ばれる寄付は、教皇の慈善活動や教会の運営に使われます。
美術館や観光収入 
バチカン市国にはサン・ピエトロ大聖堂バチカン美術館など、多くの観光名所があります。これらの施設への入場料も重要な収入源です。観光客が多数訪れるため、これらの収入はバチカンの財政に大きく寄与しています。
切手や出版物の販売 
バチカンは切手や宗教関連の出版物を販売しており、これも収入の一部を形成しています。
資産運用 
バチカンは資産運用による収入も行っており、これにより財政の安定を図っています。
このように、バチカン市国の運営は信者からの寄付を中心に、観光収入や資産運用など多様な収入源によって成り立っています。

 

まとめ

印象に残ったのは最後のシーンですね。
若い彼女たちは、もしかしたら未来の教皇かもしれないね・・・という解釈を私はしました。
あれだけドタバタしてたら、誰が教皇になってもおかしくないですからね。
 
この映画は、バチカンにおける物理的な男根主義の終焉を予見してるのかもしれないし、突きつけているのかもしれないなーと思ったりしました。
 
それでは、お読みいただきありがとうございました♪
 
 

fortunamajor.hatenablog.com

 

 

 

『”風の谷のナウシカ”を生物多様性で語る坂田昌子氏講演【環境再生・生物多様性連続講座】』感想

 
 
こんにちは。
ドキュメンタリー『ノー・アザー・ランド』が公開されたと知ったサトーです。
観にいきたいんですけどね、近くの映画館では上映してないんですよね。
ちょっと遠出しないといけないみたいなので、スケジュールを調整して、ぜひとも見に行きたいです。
 
さて、日本では高額療養費制度の上限の引き上げが、いよいよ現実になりそうですね。
どうやら日本政府は、国民の命と健康を脅かすことに必死なようです。
上限引き上げの言い分としては「現役世代の保険料負担が増大している。制度が維持できるかが大きな課題」としていますね。
いやいや、他に削れるところあるでしょうよと思わずにはいられません。使い道のない軍事費を削ると一気に解決しそうですけどね??
とりあえず、現役世代のせいにするのはやめて頂きたいですね。
 

この講演は

( ↑↑↑ 2025/03/04 11:36:00までアーカイブを販売してるそうです)
 
坂田昌子氏による、マンガ版『風の谷のナウシカ』を生物多様性の視点から読み解き、解説してくれる講演会です。
 
坂田氏は東京高尾山で生物多様性を守り伝えるために、ネイチャーガイドをしながら全国を回り、生物多様性条約や地球サミットなど国際会議にも参加しています。
要するに生物多様性の専門家です。
 
 

感想

私はオンラインで見ました。
風の谷のナウシカ』は若いころに映画を見て、直後にコミックを全巻読んだんですよね。
 
でもコミックの最後のほうは、ナウシカと誰か(覚えてない)の会話ばかりで、難しくて何を言ってるのかサッパリだったんです。
そのサッパリだった部分が、今回の講演を聞いてかなりスッキリしました。
 
コミックが手元にないので読み返すことはできないんですけどね。
やはりあの話は地球vs人間というか、自然vsナウシカになってるようだなーと改めて思いましたね。
 
 

印象に残った言葉

坂田氏の言葉で印象に残ったのは
山は命だと思ってないからできる」です。
どういうことかというと、山の木を伐採したり、トンネルを掘ったり、土砂を取るために切り崩したり、人間がやるそういうことは「山」を命または命の集合体だと認識しておらず、「物」として認識しているからできることだ、ということです。
 
確かになぁと、これはすごい納得しました。
私の住んでいるところでも平気で山を切り崩したり、道沿いの木を伐採(剪定ではなく伐採)したり、海を埋め立てたりしてるんですけどね。
 
ああいうことをなぜ平気でできるんだろうと考えても分からなかったんですよ。
まあ人間の安全性確保とかそういうこともあるんでしょうけどね。
 
でも有限である自然をあえて破壊しにいくことが、どうしても理解できなかったんです。
 
それがこの講演を聞いて、ああ、ああいう人たちは自然を命ではなく物として認識してるから、伐採や埋め立てが平気でできるんだなあと、すごく腑に落ちました。
おそらく建築物のない自然の風景を見ると、カネのなる山や海として認識するんでしょうね。
 
日本人も以前は自然に敬意を払っていたようですけどね。
どうやら最近では、資本主義や拝金主義が勝利したようです。
ただでさえ資源の少ない国なのにね。
私からすると長い目で見れば、自分たちの首を喜んで絞めているようにしか見えないですね。
 

内なる自然とは

坂田氏はそういうことを「内なる自然」と呼んでいました。
木だって枝を切られたら痛いと思うとか、人為的に作られた王蟲だって傷つけられたら苦しくて怒るんだとか、
そういう概念を、その人間が持っているかどうかということらしいです。
 
つまり、自然を「物」として認識しているから、「木だって枝を切られたら痛い」と思わない人・・・それが内なる自然を持たない人です。
 
ナウシカは逆で、内なる自然をもっていると。
だから王蟲にだって優しくするし、腐海や地球のことを考えた言動をするんですね。
 
ちなみに・・・ナウシカは内なる自然を持っているけれども、同時に必要とあらば平気で人を殺すんですよね。
そのへんは動物的というか、機械的というか、複雑な人物だなあと改めて思いました。
 

まとめ

長時間の講演でしたが、とても濃い内容でした。
 
やはりナウシカのコミックを買って、読み直してみたいですね。
 
それでは、お読みいただきありがとうございました♪
 

『野生の島のロズ』感想

 
 
こんにちは。
最近のニュースや世界の動向を見ていると、Dr.Jill Steinが以前、X(旧Twitter)で「イスラエルに災いあれ」みたいに言ったのを頻繁に思い出すサトーです。
もはやイスラエルシオニストたちには呪いをかけるしか解決方法がないように思えるときがあります。
主体性のない日本政府がそういった動きに追随してアホなことをやらかさないか心配です。
 
さいきん見た映画の感想です。
 
 

ストーリー

 
カスタマーへの配送途中で嵐にあい、輸送船から落ちてしまった
「最新型アシスタントロボット」のロッゼム7134ことロズ。
ロズが落ちたのは自然豊かな無人島だった。
島の動物たちに拒まれながらも、ロズはカスタマーを探して歩きまわる。
ある日、キツネと追いかけっこをしていたら鳥の巣を壊してしまった。
巣の中に壊れていない卵を見つけたロズは、その日から子育てをすることになる。
 
 

感想

この映画を観る前は、え~AIと動物の話か~なんか想像できちゃってかったるいな~とか思ってたんですけどね。
アメリカで評判がよかったらしいと聞いて、本当に〜?面白いの〜??と半信半疑で観にいったんですよ。
 
そしたらね、ロボットが主役なのにね、思わず映画館で号泣しそうになっちゃったんですよね。歯を食いしばってこらえましたけどね。
 
話としてはとてもシンプルで、AIロボットが小鳥を育てて成長させていくっていう感動ストーリーなんですよね。でもシンプルなだけに丁寧に作られていました。
 
たとえば、ロボットならではの愚直さでカスタマーを探すロズの姿や、それに対する生命体である動物たちの反応とか、
ロズが学習モードを使って人間関係ならぬ動物関係を学んでいって、関係を改善させていくとか。
 
そういうことを丁寧に見せていってくれるんですよね。でも不思議と退屈しないんです。
 

映像がきれい

それは、ロズと動物たちの交流が丁寧に描かれているというのもありますし、映像がとてもキレイだから、というのも理由の一つとしてあると思います。
CGアニメーションの得意な自然×動物×ロボットの描写で、ほとんど構成されてるんですよね。
人間は出てくるんですけど、ほんのちょっとだけなんです。
だからなのか、各シーンが無理のない美しさで、いつまでも見ていられそうでした。
 
ちなみに・・・ロズは異常に頑丈なロボットで空から落ちても、崖から落ちても、水に浸かっても、雷に打たれても壊れません。あの大きさなので屋外用に作られたため、あんなに頑丈なんだと思われます。調べたところ、ロズは映画の中で約34種類のバージョンが存在するようです。変化の描き分け!うへぇ。
 

感動ポイント

感動ポイントはいくつかあるんですけどね、ロズと小鳥のキラリの交流とか、ロズのキラリへの献身ぶりとか、最初は本当に機械だったロズと意思を持つ動物たちとの協力体制ができあがっていく様子とかですね。
 
人間ではないロズと、自然そのものである動物たちのとの交流が意外性はないけれども面白かったですね。
その積み重ねが、人工物 × 自然の奇跡として、予期していなかった感動をあたえてくれたわけです。
 
 

父権不在

観終わったあとにですね、なんであんなに見やすかったんだろう、素直に泣けたんだろうと考えたんですよね。
そしたらね、なんというかディズニーアニメとかでよくあるように「父権の象徴みたいにやたらとキレ散らかす男性」がいなかったのが、よかったのかなーと。
 
例えば『ウイッシュ』みたいに家父長制の長がキレ散らかして、それに抵抗する若い女性や子どもたち・・・みたいな構図が、私はもうお腹いっぱいなんだなーと分かりました。
 
 
そういう視点で見ると、母性というか、女性が支配者であるというか、主軸になってるというか、この映画はそういう世界観なんですね。
 
この映画でも力を持つ男性キャラというかオスは出てきます。
でもキツネはロズと対等な友だちだし、
クマは主張はするけれども支配はしないし、
ハヤブサも協力はするけど支配はしないんですよね。
唯一、家父長制の長っぽいのはガンのリーダー、クビナガですけどね。
彼はリーダー=導く鳥であって、やはり支配しようとはしないんですよ。
まるでヨーダのようだ。
 
他のキャラも見てみましょう。
 
ポジティブな声で怖いことを言う、この映画の最大の悪役といっていいタコ足(イカ足?)ロボットも女性の声でしたよね。タコ足が操る傭兵みたいな6体のロボットは男性の体つきでしたけど、あいつらに意思はなかったですよね。なのであいつらは長にはカウントしません。
 
人間はちょっとだけ出てきましたけど、その人間も女性だったしね。
 
なので、こういうアニメにありがちな「主人公が対峙する家父長制の長」がいなかったのが、個人的にはとても好感度が高いです。
 

われわれにAIが浸透したからここまで感動を呼んだのか?

さて、ロボットといえばAIで、AIといえば代表的なのがChatGPTですよね。
 
2022年11月にChatGPTが登場して、そこからあっという間にアクティブユーザーが1億人を突破したそうです。
2024年10月には2億5000万人、2025年2月現在では3億人が使っているとかいないとか。
それだけAIが私たちの生活に浸透してきたんですね。
 
なので、もしかしたらChatGPT登場以前だったら、この映画はここまで観客に響かなかったのかもしれないなーと思ったり。
 
ChatGPTや他の生成AIがここまで普及していたからロズを見て、観客は普段使ってるChatGPTとかCopilotとかに結びつけちゃって、ロズに親しみを感じたり、世界観をすんなり受け入れたのかもしれませんね?まあ本当のところは分かりませんけどね。
 

まとめ

ロボットでも人間でも「やるべき事」や「やりがい」を見つけたやつは、人生が変わるんだなあとしみじみしました。
 
字幕で観たんですけどね、ロズ役のルピタ・ニョンゴの声がロボットにピッタリでちょっと感動しました。
これからは、こういうAIのキャラが増えていくのかもしれないですね。
 
それでは、お読みいただきありがとうございました♪
 
 

『満ち足りた家族』感想

 
こんにちは。
イスラエル支援企業のコンテンツを宣伝するのがほとほと嫌になったサトーです。
どうすればいいかなーとAIに相談したところ、更新を減らすのもひとつの手だと言われました。
なのでここの更新は減らしていこうと思います。
 
さて、6週間の停戦合意に至ったものの、イスラエルは相変わらずパレスチナ人を拉致したり攻撃しているようですね。
やっぱりあの人たちは「停戦」の意味が分かっていないと思われます。
トランプが米大統領になってから、別の意味で悪くなってる気がします。
(それにしてもあの大統領は各方面にケンカを売りまくってるので、アメリカは鎖国する気かな?とか思っちゃいますね)
 
とにかくイスラエルはさっさと終戦して、永遠に攻撃しないでほしいですね。
 
さいきん見た映画の感想です。
 
 

ストーリー

弁護士の兄と、小児科医の弟。
ふたりはそれぞれの家族をつくり、幸せに暮らしているように見えた。
兄と若い妻、弟と年上の妻は月に1度、高級店で4人で食事をする。
ある夜、家に置いてきたはずの子供たちが外出し、問題を起こす。
それは無視できない犯罪だった。
冷静な「成功者」として生きている兄弟の本音がむき出しになり、事態は取り返しのつかないところへ行ってしまう。
子どもを守ろうとする夫婦と、親世代の価値観が通用しない子ども世代。
「満ち足りていた家族」の仮面がボロボロと剥がれ落ちていく。
 
 
 

感想

この映画は家族史至上主義の価値観をぶっ壊しにきたのかなと思いました。
兄と弟の家族の愛憎劇といえばいいのでしょうか。
家族といっても結局は他人の集まりですからね。
自分以外は全員他人ですからね。
 
普段はどれだけ冷静に「成功者」を気取っている男性でも、子どもや自分の利害が絡むと感情的になり、
暴力という安易な方法に頼っていまうんだなあという感想です。
 
見どころは、途中で対立していた兄弟の考え方が、後半では逆転するところでしょうか。
そこはスムーズすぎて個人的にはちょっと感動が薄かったです。
 
 

まとめ

一番、怖かったのは子どもたちでしたね。
私は親世代のほうに年齢が近いんですけどね。
 
あの子どもたちの価値観というか考え方というか、心の在り方がもう理解不能で、恐ろしかったですね。
これからは、こういう世代が社会を作っていくのかなあと考えたら、私はその社会では生きていくのが困難だろうなと思いましたね。
 
もし、あの子どもたちみたいな人間が社会の大多数になって、社会を支配したら、法律が機能してる事だけが救いになるのかもしれませんね。
まあ法執行者がどんな判断をするか分かりませんけどね。
 
あの子どもたちが超少数派であることを願います。
 
それでは、お読みいただきありがとうございました♪
 
 

『ぼぎわんが、来る』『来る』感想

こんにちは。
WFPとハッキリ書かれた車がワディ検問所付近でイスラエル軍に銃撃されたと知ったサトーです。
 
幸いにも負傷者はいなかったものの、車には16発が被弾したそうです。
イスラエル軍は国際機関とか、ジャーナリストとか、医療従事者とか、誰彼かまわずに攻撃するんですよね。ちょっとオカシイですし、これは普通に犯罪ですよ。
で、それを止める力を持ってるはずのバイデンもイスラエルに大量の武器を売ったらしいのでね。こっちもちょっとオカシイんですよね。
 
なぜガザでのあの蛮行を続けられるのか、傍観できるのか不思議でしょうがないですね。
とりあえずさっさと停戦しやがれ。
 
さいきん読んだ本と、見た映画の感想です。
※ちょっとネタバレしています。
 
 

ストーリー

小説『ぼぎわんが、来る』
幸せな新婚生活を送っていた田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。
来訪者に対応した秀樹の後輩は入院し、憔悴していく。
やがて秀樹の周囲には、不審な電話やメールが届くようになる。
それは、秀樹がかつて遭遇した「ぼぎわん」という化け物であった。
 
 
映画『来る』
子煩悩で愛妻家の田原秀樹まわりで、怪奇現象が出はじめる。
秀樹はオカルトライターの野崎に怪奇現象の解明と除霊を依頼する。
しかし、秀樹に憑いているアレは想像を超える凶悪なものだった。
 
 
★小説と映画の違うところ
小説では、アレ=ぼぎわんの正体と出現理由がハッキリ書かれています。
それに対して映画では、アレの正体も出現理由も曖昧なまま終わっています。
小説ではクライマックスの琴子と化け物の戦いが細部までしっかり描かれているのに対し、
映画では琴子vsアレの戦いはアッサリ終了しています。
映画を見てモヤモヤしている人は、小説も読んでみるといいでしょう。スッキリしますよ。
 
 

なぜこれを見ようと思ったか

ここからは映画へのdisな感想が入っていますので、映画『来る』ファンの人は見ないでください。
ちょっとネタバレもしています。
 
なぜこの本を読んで、この映画を見ようと思ったかというと、中谷美紀が『嫌われ松子の一生』の撮影時に、監督に恫喝され罵倒されていたと知ったからですね。
監督は中島哲也という人で、『下妻物語』『告白』『渇き。』を撮った人らしいです。
私は中谷美紀を恫喝するやつは許さない所存です。
 
私は日本映画はあまり見ないんですよね。だから『渇き。』や『告白』の加害事件とかも知りませんでした。相当、酷かったみたいですね。
 
X(旧Twitter)で、そんな監督が撮った『来る』は原作と違って女下げが酷かったというポストを見たので、人格も作品もそんなに酷いのか、と思ってまずは『ぼぎわんが、来る』を読んで、次に映画化された『来る』を見てみました。
 
結論から言うと、『ぼぎわんが、来る』は面白かったですよ。
 
 

なんじゃこりゃ

でも映画化されたほうは好きじゃないです。
というより、原作を読んだあとに見ると、何やってんだコレ、というかんじです。
よくあの筋道通った面白かった原作を、これだけわけわからんものにしたなあと。
 
原作自体が複雑な構成だと思うんですよね。
特に時間軸が複数あって、秀樹の幼少期に飛んだり、現在に戻ったり、田原夫婦の結婚前に戻ったりします。
現在と遠い過去、近い過去を行ったり来たりするんですね。
場所は、秀樹の祖父母の田舎と、都会の秀樹たちの部屋と、真琴の部屋がメインです。
 
構成は三章で、第一章が秀樹の視点、第二章が秀樹の妻・香奈の視点、第三章が野崎の視点で書かれています。
 
一方、映画のほうは時間軸は小説と似ていますが、それに加えて秀樹が幼少期の頃に会った少女が出てきます。
これがやがてアレの姿になるんですけどね。
 
ただ映画では、場所は主に都会に限られていましたね。
田舎のシーンはあまり出てこなかったです。
小説では解決のヒントはそこにあったのに。
 
あと映画では、香奈が自堕落で邪悪めいた存在になってましたね。
濡れ場は必要でしたかね?
『渇き。』の件を知った後なのでね、なんでもかんでも濡れ場を出さないと気がすまないのは病的な性癖なのか、加害性なのか、どっちかなと考えちゃいました。
 
小説のほうは最後は琴子と野崎で、ぼぎわんと戦うんですよね。
でも映画のほうは各方面から有力な霊能者を集めてたじゃないですか。
警察まで導入して道路を封鎖して、大掛かりな舞台も設置して、まるでお祭りみたいな大騒ぎですよね。
そういうところが権威主義的なニオイがして引きましたね。
 
言いたいことがあと10個くらいあるんですけど、長くなるのでこのへんにしておきます。
 
 

柴田理恵

映画に対してポジティブな感想もありますよ。
印象に残っているのは柴田理恵さんです。
私は黒髪で元気に笑う柴田さんしか知らなかったのでね、白髪まじりの髪でいわゆる「枯れた」ような演技をするのを見て、衝撃を受けました。
 
なんというか、老いた自分の魅せ方、活かし方を熟知しているんだなあと。表現者として素晴らしい方なんだなあと、しみじみしました。
 
 

3つ

最後に映画に対する3つの不満を書いて終わります。
 
1.原作ではアレの姿がハッキリと描写されているのに、映画ではごまかされていたこと。
今の時代なら、CGなりアニメーションなり、なんならストップモーションでもバケモノを作ることはできたでしょうに。なぜ、ぼぎわん本体を登場させることができなかったんですかね?技術の問題ですか?
 
2.クライマックスで、琴子とアレのバトルが描かれなかったこと。
いやいや、そこが肝心じゃないのか、この長尺で引っ張ってきて、そこのバトルを見せないと観客は納得しないんじゃないかと思ったんですよね。
少なくとも私は納得しなかったですね。
なんで最後は血が外に飛び出して終わりなんだよ、イージーすぎるだろ。
琴子が素手で勝利した理由を教えてくれないのかよ。
で、アレの血が野崎に降りかかったのに、野崎がアレに憑りつかれなかったのはなぜ?その時点でアレの妖力は無力化していたから?
 
3.原作にはこう書いてありました。
非科学的、超常的な分野においても、論理や理屈というものは必ず存在する。何でもアリではないのだ。
 
でも映画になったら、論理や理屈がすっ飛ばされて、何でもアリになっていたように見えたんですよね。なんでこうなった?
 
 

まとめ

というわけで、小説はおもしろかったけど、映画はなんじゃこりゃってかんじでした。
小説『ぼぎわんが、来る』は続編があるので、次は『ずうのめ人形』を読んでみようと思います。
 
あと、中谷美紀を恫喝するやつは許さないです。
 
それでは、お読みいただきありがとうございました♪
 
 

『「怠惰」なんて存在しない 終わりなき生産性競争から抜け出すための幸福論』感想

 
 
こんにちは。
年末も年始も、寒いときも暑いときも、道に立って看板を掲げて「Free Palestine」や、政治家へのメッセージを訴えている人々を見ていると、純粋に尊敬の念しかわいてこないサトーです。
私は夏は熱中症がこわいし、冬は寒くて長時間外に立っていられないんですよね。
その方々のモチベーションがどこから来るのかわかりませんが、たとえ1人でも声を上げていく姿勢というのは、見習いたいものです。
あいかわらず、ガザもレバノンイスラエルからの攻撃が続いているらしいので、さっさと停戦してほしいですね。
 
さいきん読んだ本の感想です。
 
 

この本は

「怠惰のウソ」について社会心理学者である著者が説明しています。
 
「怠惰=悪」であると思い込んでいませんか?
それは植え付けられた信念です・・・と。
 
働きすぎなのに、もっと働かなきゃいけないと思っている人や、
病気なのに、まだまだ仕事ができると思っている人の実例が出てきます。
その結果、どうなったか?ということも書かれていますよ。
 

感想

この本はおそらく、ハードワーカーとか、社畜マインドの人とか、体力気力もないのに周りに流されて長時間労働をしてしまう人に向けて書かれた本かと思います。
 
著者の言う「怠惰のウソ」というのは、
・本質的に自分は怠惰で無価値だ
・いつも一生懸命に頑張らなきゃいけない
・自分の価値は生産性で決まる
・仕事は人生の中心だ
・途中でやめたり、頑張らないことは、不道徳だ
などと、常に思っている人のことです。
 
そういう風に思い込むように、長年、人々は教育されてきたと。
だから少しくらい仕事をサボったり、勉強をしなかったりすると、「怠け」とみなされて、ダメ人間のようなレッテルを貼られてしまうと。
 
それを怖れているので、人は自分の体や精神にムチ打って
限界を超えてまで働こうとしている・・・それは危険だよ・・・といった事が書かれていました。
実際に著者やその友人は、限界を超えてまで働いてしまったので、倒れて働けなくなったこともあるようです。
 

ゲーミフィケーション

ゲーミフィケーションとは、コンピュータゲームの要素や原則を、ゲーム以外のことにも応用すること。
 
印象に残った言葉は「人生がゲーム化される」です。
たとえば、プログラミングなどの学習サイトはゲームみたいでモチベーションが高まるように作られていますよね。
目標達成に応じて、ポイントやメダルがもらえるやつです。
 
そういうことが生活のあらゆる面に適用されてて、生活がゲーム化されているので、全てが競技化して、生産性や効率化を優先するようになっているらしいんですね。
 
こういうやり方には、メリットとデメリットがあって、
 
メリット:他人と比べてモチベーションを高めることができる
デメリット:今日も達成できなかった・・・と自己嫌悪になることもある
これは私もDolingoを何度か挫折してるのでよくわかります。
 
著者によると、そういうことばっかりやっていると「あらゆることから喜びが奪われてしまう」ので、業績や数字よりも、経験することの喜びを味わおうよ、とのことです。
脱・ゲーミフィケーションとのことです。
 

SNS対策

SNSやネット社会についてもふれています。
いわゆるニュース・ダイエットというやつですね。
 
SNSなどが普及したせいで、情報過多になっていますよね。
たとえば、
・情報過多の社会では、すべての情報を得るのは無理
・情報量は多くなったが、情報の質は玉石混交。ゴミもある
・情報が多すぎて、私たちは被害を受けている
・すべての専門家にはなれない
・よって、すべてのニュースや問題に対処はできない
 
だから情報を制限して、「不穏なメッセージから離れるのも大事。全部は見られないし、すべてと戦うのも無理」とのことです。
 
たしかにね。熱心にニュースを見るのもすごいと思うんですが、シリアスなニュースを見るのはきついときがありますよね。
私は体調が悪いときはSNSやニュースは見ないようにしています。
元気な時はいいんですけどね。
私の身体も脳みそもひとつだけなのでね、限界がありますよね。
 
 

警告信号

著者いわく、社会で「怠惰」のレッテルを張られやすいのは、
抑うつ状態の人
先延ばしにする人
無気力な人
だそうです。
 
こういう人は「怠惰のウソ」によると怠け者以外のなんでもないのですが、著者は、これは個人の欠陥でもなければ、邪悪でもないと言っています。そうなるのには理由があると。
 
これらは限界まできている警告信号なので、無理せずに休んでいいし、自分はなんて怠惰なんだ・・・と責めなくていいそうです。
 
思い当たる人はいますか?
 
 

まとめ

日本で一番顕著に「怠惰=悪」とされているのは、おそらく生活保護受給者へのバッシングではないでしょうか。
働かなくてもお金がもらえることで、怠け者とか、ちゃんと働けとか言われてるあれですね。
 
生活保護のシステムがあるということは福祉が充実しているということなので、問題ないと思うんですけどね。
 
世の中にはどうしても働けない人っていうのがいますからね。
我が国の福祉が充実してるっていうのは、労働者としては、かなり安心できることだと思うんですけどねぇ。
 
とにもかくにも労働者の皆さんは、働き過ぎにはくれぐれもご注意くださいね。
 
それでは、お読みいただきありがとうございました♪